ゴルフの名言勝手に解釈  (渡辺隆司のゴルフブログ)

過去から今に伝わるゴルフの「名言・格言」を、勝手な解釈で描いて行きます。 読んだ結果、多分、ゴルフが上手くはなりません。 でも、ちょっと良いゴルファーにはなれるか、と。 もちろん責任持ちませんが。 (イラストの無断使用はしないで下さい)

2016年12月

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「最後のパットが入るまで、ゲームは終わっていないのだ」...スコットランドの古諺

本来の意味は、マッチプレーなんかで最後の最後まで試合を捨てるな、という意味だろうと思う。
ゴルフっていうのは自然が相手のゲーム、その中で「上手いとは言っても人間のやること、最後まで何が起きるか判らないのだから、決して諦めてはいけない」という教訓だろう。

でも、自分で自戒を込めて、この言葉は「自分のミスの結果なのに、腐ったり、投げやりになったり、真剣にプレーすることをやめて、いい加減なプレーでせっかくの一日を無駄にしてしまうな!」って事だと、理解している。
実際、過去を振り返れば思い当たることが多い。
ナイスショットがとんでもないライに続けて行ってしまったり、バンカーに入れば人の残した足跡の中、ラフに入ればずっぽりえぐられた穴の中、グリーン外せばなんだか知らん動物の糞の上、ワンピン以内につけたチャンスでことごとくパットがカップに蹴られて入らない、とか...
スタートの2〜3ホールでそんな事が続いて、調子は悪くないのにショットは悪くないのに、スコアが大きく崩れてしまう。

今の「数字の多少で優劣を決める」ストローク数オンリーのゴルフ遊びでは、それだけで「今日はもう何やってもダメな日だ」と、次のホールからやる気が無くなり、集中力が消え、全てのショットが投げやりになってしまう。
コースの所為にしたり、クラブの所為や誰かの所為にして、愚痴と嘆きと言い訳を繰り返す。
....そしてその結果、翌日から始まる後悔と反省の日々。

マッチプレーならそんなホールの出来事も十分取り返せて楽しめるんだけど、ストロークプレーではこう言う事が普通に起こる。
はじめの2〜3ホールで大叩きすると、それでその日がダメな日に決まってしまう...(残りの15〜6ホールをいくら頑張っても叩いた分バーディーで取り返すなんて普通のゴルファーじゃ不可能だから。)
せっかく遠くからゴルフコース迄やって来て、それなりの金と時間を作って、何日も前から楽しみにしていたラウンドが、朝のうちだけで終わってしまって、残りはまるで消化試合のように空虚な球転がしの散歩になってしまう。
これじゃあ、勿体ない。

最後のパットを決める迄ゴルフと言うゲームを楽しむ為には、ストロークの合計数優先主義のゴルフをやめる事が一番。
ゴルフの基本は、コースとのマッチプレー。
もちろん勝負する(チョコレートだけね)仲間がいるなら、そんな仲間とのマッチプレーがゴルフは面白い。
いくら叩いても負けはそのホール一つだけ。
次のホールは新しい気持ちで勝負する。
これなら、最後のホール迄勝負は楽しめる。

ストローク数は、最後のパットを決めてから数えれば良い。

コースとのマッチプレーは、自分のハンデの数だけパーに一打足し、パー以上は自分の勝ち、ボギーで分け、ダボ以上は負けと計算する。
それで五分以上なら、自分の勝ちとする。
結構いい勝負が出来るぞ。
(自分のハンデが無かったら、平均スコアか一番最近のスコアのオーバーパー分の8割を仮ハンデとすると、いい勝負を楽しめるぞ。)


(でも、ひとたびコースに出てみると、どこかで数字に拘る俗物の自分もそこにいる。
最後のパットまで、誠実に気持ちを込めて、そしてゴルフの女神に感謝して、ホールアウトしたいものだといつも思ってはいるんだけれどね...反省、デス。)


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「ゴルフは、他のみんなが幸運に恵まれ、自分だけが不運に取り憑かれるゲームだ。」
グラントランド・ライス(アメリカ)

どうだろう?
この言葉のように感じたことがないゴルファーなんて、殆どいないんじゃないのか?
「なんて俺はついてないんだ」とか、「どんなにいいプレーしたって、変なところばかりにボールが行きやがる」とか、「あいつはいいなあ、ラッキーばっかりで」とか思ったことが無いゴルファーなんているのか?

正反対の言葉に、「ゴルフにおける幸運と不運の量は同じだ」なんて言う言葉もあるけど、どう?
どっちの言葉が、実感として共感できる?
「こう言えるヤツなんて、絶対に幸運に多く恵まれているヤツだ」って思ってるだろ。

確かに確率論とかで言えば、その数字はやがては半々に収束するんだろうけど、その数字が収束するほどに試行を重ねる時間は、我々の人生では足りないはずだ。
我々が元気でラウンドする間に、運と不運が同じになる事なんて事は絶対にない!...(と思う)。

当然、幸運につきまとわれる人間と、不運ばっかりの人間に別れるわけだけど、何故か俺の周りでは9対1で不運(自己申告では)な人間ばっかりだ。
「特に自分は不運だ」なんて、みんな思っている。
なのに、ゴルファーはこの言葉のように「自分以外の人間は幸運なのに」と感じてしまう訳だ。
ひがみなのか焼きもちなのか、自己憐憫か被害妄想か、ヘボゴルファー程俗物で業が深いのかも。

...しかし、いつも不幸ばっかりな目にあったって(あくまでも本人の申告ね)、それでもみんなゴルフをやめないのがまた不思議。
不運な自分を楽しんでるのか、それともいつか自分にも幸運がやってくるのを信じているのか。


考えてみると、やっぱりゴルフの神様は女だと思う。
...モテる男とモテない男の話に、これはまんま当てはまるもの。


その女神さん、頼むから今年はちょっとは俺の方を振り向いてくれないかなあ。
俺の隣には貧乏神が懐いちゃって、ずっと離れてくれないんだ。
こいつをなんとかゴミ箱に捨てて来るからさ、俺の近くにもう少し...

別に「つきあってくれ」、とは言わないからさ。


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「バーディーパットをショートするような人とは、友達になってはいけない」
...なぜなら、そんな人は「ここ一番!」とか、「いざ!」とか、「助けが必要!」とかの場面になったときに、「全く頼りにならない人だから」。

怖い言葉でしょ。
初めて聞いたときには、「意地でもショートするか!」って、オーバーしまくって3パットの連続になっちまったもの。

でも、この本当の意味は「Never up, never in」「届かないパットは永遠に入らない」と同じ事だと思う。
それに、この場合の「バーディーパット」というのは、あくまでワンピン以内についた「バーディーチャンス」のパットのことだろう。
20ヤードに乗ったのを「ショートしちゃいけない」なんて考えたら,ノーカンパットになるのは当たり前。
あくまで、「チャンスについたら、カップをオーバーするように打て!」という事だ。
闇雲に「オーバーすりゃあいい」って言ってるわけじゃないと思う。

でも、多くのゴルファーがバーディーチャンスにショートしたときって、「入れよう!」って気持ちより、「こんなに近いところから3パットしたくない」とか、「俺がバーディーだなんて、入ったらどうしよう」とか「こんなチャンスなんて2度と無いかも知れない」なんて、弱気とビビリと後ろ向き思考で、身体をちゃんと動かせなくなった時なんじゃない?
とすると何時もこんな考えになる人って、友達になったとしても「いざ」という時には、絶対に「逃げる奴」のような気がするよな。
...やっぱり友達にはしたくないか。

前に書いた「ゴルフはその人間の本質が表れる」という意味で、やはり滅多に来ないバーディーチャンスについた時なんかは、その人間の「ここ一番」での行動が出てしまうんだろう。

そういう意味で、同伴競技者のチャンスについたパットの打ち方を見るのは、人間観察として非常に面白いかも知れない。
意外な人の勇気や男気を見たり、意外な人の女々しさや小心さを見る事が出来たり...経験から言うと、普段静かで大人しそうな女性がドキッと驚く様な力強いパットを打ったり、ゴリラのように厳つい男が全然届かない弱々しいパットを打ったり、なんてのが結構多い。

自分は、チャンスにつけたパットは、絶対にオーバー目に打つと決めている(例え3パットしても)。
...ただその前に、そのバーディーパットを打てる場所に「乗せる」事が大問題なんだけどね。

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「ゴルフは その人間の性格が 最善と最悪の形で表れる」 バーナード・ダーウィン

怖い言葉だ。
昔から、「車の運転を見れば、その人間の本当の性格が判る」、とか「麻雀をやると、その人間の本当の性格が判る」なんて伝えられてる「人間判読法」があったけど、今はこの言葉が一番真実なんじゃないかと思っている。

なんたって、ゴルフはほぼ一日かけて、18回の「旅」というか、「登山」というか、「挑戦」・「勝負」をするゲームだ。
それも創られたものとはいえ、自然の中で自分の持っている技術のみで進んで行かなくてはならない。
自分だけの責任で(なかには他人のせいにする人もいるけど)、審判もなく、助けてくれるのはキャディーのみ。
...と言ってもそれは以前の話で、今じゃカートでのセルフプレーが殆どだから、実際には多くのゴルファーは味方もいないたった一人の孤独な戦士としてプレーしている訳だ。

だから、18ホール一緒にプレーしていると、否が応でも様々な場面で、その人の隠していた本当の性格・人間性が出てしまう。
ラッキーに感謝せずにアンラッキーだけを怒るとか、自分のミスショットに対する責任転嫁、他人のナイスショットに対する嫉妬、コースに対する不満やいらだち、ボールや道具に対する怒り。
あるいは、自分のプレーに愚痴や泣き言ばかり言う、安全第一と言いながらひたすら逃げまくる、大事なパットを全て女々しく打ち切れない、あるいは無謀なプレーを繰り返して失敗すると投げやりになる...等々。
「え? この人が?」なんて感じさせる、よくあるパターンだ。

自分でもラウンド中何度も、自分の中にいるそれらの「最低の自分」が隙あらば表面に出てこようとするので、それを抑えるのに大変な思いをする。
もちろん抑え切れずに時々顔を出してしまう...馬鹿なゴルファーの一人だ。
だいたい「最善の自分」なんて、思ったよりスコアが良い時だけは出て来るんだけど、ちょっと思うようにならないとどこかに隠れちまって行方不明で出て来やしない。

つまり凡庸な(立派じゃない)自分てのは、ゴルフをプレーしながら、出てこようとする「最低の自分」といつも戦っているって訳だ...これじゃあゴルフも疲れるはずだ(笑)。


問題は、周りから普段「良い人」と思われていた人の、本当の正体が「最悪」だった場合。
逆の場合は、友人が増え、ゴルフ仲間が増えることで、問題はない(どころか大歓迎)のだけれど、「最悪」だった場合は大変だ。

次の日から、友人も仲間も信用も、時には愛情でさえ、奇麗さっぱり失っているかもしれない。
その笑顔も優しさも、逞しさも男らしさも(女らしさも?)、「表に出ているのはみんな空しい見せかけで、本当の人間性はあのゴルフ場で見せた姿なんだ」って一緒に回った人からもう伝わっているかもしれない。
...怖い事だ。

自分が同伴したゴルファーにそう思われないように、本当に気をつけなくちゃいけない。
それは、ゴルフする度、「最低」「最悪」の自分との戦いもずっと続くってこと。
出来れば本心から良いゴルファーになれるように努力しなくちゃいけない。

ホント、ゴルフは人生修行かよ、って泣き言だって出て来るよなあ。

う〜ん、大変だ...(それでも、面白いからやるんだけれどね)。


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「ゴルフって奴は、勝っても負けても面白い」
この言葉は、摂津茂和氏によると、1900年に30歳で戦死したフレディ・テイトが、母親に送った手紙の中の一節だという。

この当時はゴルフのプレーはマッチプレイが基本だったそうなので、「勝ち、負け」の表現になっているけど、今だったら「スコアが良くても悪くても」という表現になっているかと思う。
特にどうという教訓なんぞが含まれた言葉ではないけれど、我が身に振り返って見れば、ゴルフを遊んだ後の感情の揺らぎは...まさに「面白い」からなんだと思う。
純粋に「野に遊ぶ」事を楽しむゴルフもちゃんと存在しているのだが、これは「戦い」の方に魅力を感じている人々への名言だ。


...他の殆どのスポーツはどんなに懸命に鍛えて練習していても、30歳前後でピークを迎えて、その後は引退とか卒業とかいう形で現役を退き、そのスポーツから離れてしまうか、指導者として関わるのがやっとだろう。
スポーツの競技選手として、緊張と興奮、スリルと高揚を経験して「戦った」経験のある人達にとっては、あまりにも早く楽しみを奪われてしまうのが厳しい現実だ。

その点、ゴルフは違う。
もちろんアマチュアの公式競技など、スクラッチで争う試合は若者の世界なんだけど。
ハンデキャップというものがある試合では、「自分のベスト」を出すことで誰にでも優勝の機会がある。
競技に出ることがなくても、スポーツをやったことがなくても、「ゴルフ」って奴は、仲間に勝つ、自分のベストスコアを更新する、難コースといわれているコースに対して「善戦」する、設計家のイメージに挑戦する、自分の覚えた新しい技を使う,やっと買えた憧れの道具を使いこなす...等々、誰でも「本気」になって「戦う」ことができるのだ。
それが「面白い」事なのは、50になっても、60になっても、70になっても、あるいは80になってさえも「戦い」を楽しんでいる人が多数いることでよくわかる。

もちろん、戦いなんだから「勝つ」に等しい「楽しい」事ばかりじゃない...むしろ「負ける」結果の、大叩きのボロ負け、ワーストスコア更新、パーが一つもない、ボールを沢山なくした、イメージ通りのショットが一発も打てなかった、期待通りには全然飛ばなかった...なんて事の方が圧倒的に多いのは、みんな実感している「当たり前」の良くあること。

やけ酒、反省、後悔、自己否定に自己批判、挙げ句の果てには「もうゴルフなんてやめた!」。

それでも、数日たてば、「不死鳥」のように、いや、「ゾンビ」のようにふらつきながらも復活してきて...クラブに触る...それはやっぱり面白いからなんだろう?

泣き笑いで、「泣き」の方が多くても、結局またやりに行くんだろ...御同輩?

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