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ゴルフは「たら・れば」の悔恨によって、さらに深く興味を増す...P・G・ウッドハウス
(夏坂健氏「ゴルファーは眠れない」より)

夏坂氏によると、ウッドハウスは生涯に400編のゴルフ小説を書いた異才ということだが、私は彼の本は読んだことがない。
ただ、この言葉はゴルフをある程度プレーしたことがある人なら、誰でもが感じる言葉だろう。

「あの時こうしたら..」「あのショットはこうすれば...」の「たら・れば」は、ゴルフで一番「してもしょうがないこと」として、謂わば「笑いもの」にされている言葉である。
つまり「あとの後悔先に立たず」「覆水盆に返らず」で、なんの役にも立たないし、男らしくない(今は「女の腐ったような」ではなく「男の腐ったような」とも言うらしい)し、みっともないし、情けないとか言う意味で使われる事が多い。
しかし、この「後悔」とか「悔しさ」から出る「たら・れば」こそが、さらにゴルフと言う熱病にはまってしまう原動力となるんだと、ウッドハウスは言っているのだ。

確かに、殆どのアベレージゴルファーがクラブを買ったり替えたりするのは、「あの時ちゃんと当たるドライバーだったら...」とか、「あの時にショートウッドをもっていれば...」とか、「もっと易しいアイアンだったら...」とか、「スピンのかかるウェッジさえあれば...」とかいう、「たら・れば」の思いが動機になっている。
...今ちゃんと当たっているものを、さらに良くするために替えるなんて人はそうはいない。

そして練習に行く事だって、「あの時ピッチエンドランがちゃんと打てたら...」「高い球を打つ練習をしていれば...」「スライスを少なくする練習していたら...」「アドレスの方向を練習で確かめていれば...」なんて、コースでの失敗や悔しさの「たら・れば」の思いからだろう。

天才ならざる我々凡ゴルファーに、本当に後悔のない、悔しさのないラウンドが出来ることなんてまず無い。
そして、そういうアベレージゴルファーってのは、本当に謙虚で素直で正直で向上心に燃えている人ばっかりで、傲慢で自信に満ちて自分に酔っているような「嫌なヤツ」なんて見たことがない。

だから、何時だってラウンドが終わったときには、みんな「顔で笑って、心で泣いて」、たくさんの「たら・れば」を反芻し、心の奥底で「こんなに下手ならもうゴルフなんかやめたい」「でも、こうすれば、次にはきっと劇的に良くなるような気がする...」「でも、俺には才能がないのかも...」「でも...」なんて、もう一人の自分と後悔と反省と自虐とかすかな希望の会話を繰り返す。
そして、みな苦悩に満ちた修行僧のような表情で、クラブハウスを出て家路につく。
(ゴルフをやらない人が見たら、「この人達はきっとゴルフをやめてしまうだろう」なんて思うくらいだ。)


でも、そんな苦悩に満ちた修行僧達は、その日の日付が変わる頃....

「そうだ! あれをこうしたら」
「もしかしたら、これをこうすれば」

いつの間にか「たら・れば」が、暗黒の悲しみから大きな希望の光りへと変わって行くのを感じているのだ。



そうして
「ええと、次のゴルフの予定は...」